限界への挑戦

今朝、思うことがあり久しぶりに日記を綴ろうと思う。

私はフィットネスのプールで毎日2,000m泳いでいる。またフィットネスが休館する木曜日は家内ときくちゃんと登山をするようにしている。昨日、道中でこんな話を三人でしていた。「プールで2,000m泳ぐのも、6、7時間かけて毎週登山するのも、その時だけが肉体的な苦しみだけになり、一番楽なんだ」。

修大の2023年全日本スーパーモト選手権の宮城県菅生の開幕戦は良いスタートダッシュを決めた。しかし最終戦の前哨戦奈良県名阪、最終戦愛知県美浜と転倒などによりレースを思うように戦えなくなってきた。それは何故なのか?修大を搬送していただいている救急車の中に乗り込んだ時からずーっと今日まで考え続けてきた。

ようやく、今朝、その答えがわかった!

以降、記載している文章は2007年3月、修大が小学3年生の8歳の時に綴った日記です。

私はホームストレートに帰ってきた修大には、サインボードを使わない。 
サインは2人で決めた私の指サインと、修大の瞳だから。 
表情は繕う事が可能だが、瞳は決してウソをつかない。私はホームストレートを駆け抜ける一瞬の修大の瞳を決して、見逃さない。

ホームストレートの先には第一コーナーが待ち構えている。最終コーナーのクリッピングポイントからホームストレートを全開で駆け抜け、第一コーナー手前にいる私の前にやってくる。 
「今日の課題はpapaのいる所まで全開に」とブリーフィング。 
私は修大の瞳を逃さず、実は立っている場所を1歩、半歩、そして靴1つ分と第一コーナーに近づけて行く。 
それは限界に挑戦するために次の周回も、また次の周回も。

その時、感じはじめる「サーキットの鼓動」を。 
修大は、恐らく感じているであろう。少しずつ私が立っている場所を深くして行くことを。 だからこそpitで何も語ろうとせず、 ただマシンを見つめながら、 「チェッカードフラッグを受けるために、自分のすべてをかける」と決心し何度もコースインを繰り返す。

そんな「限界との闘い」を毎週末するために毎日「誰にも負けない努力」で挑んでいる。

誰にでも夢はある。しかし問題なのは夢の実現に向けての「情熱と努力の量」である。ただ「ああなれたらいいなぁ」程度では夢は実現しない。「限界との闘い」それは、抱いた夢に挑戦する日々の「情熱と努力」の積み重ねである。

私たち親子は2002年春、ちょうど佐藤琢磨さんがF1ドライバーとなった年に智哉がホンダレーシングスクール(当時鈴鹿サーキットレーシングスクール)に最年少の9歳で入校してくれた時に初めてモータースポーツに出会った。その当時から戦いが始まった。それはライバルとの戦いではなかったはずだ。弱い自分の心との戦い、孤独との戦い、自分の限界への戦いだった。戦うステージが知らず知らずのうちにどんどん大きくなっていくにつれ、グリッドに並んだライバル達との戦いへとなってしまっているように感じている。

今年、2024年は「ベースキャンプ」に回帰しようと思っている。それは自分自身との戦い、孤独との戦い、自分の限界へ挑むために。

より美しくより速く。

アグレッシブに煌めく。

スポーツマンシップに磨きをかける。

写真はそんな当時2008年春、小学3年生の8歳だった修大がNSF100をシェイクダウンさせる瞬間